第1章 序章
第1節 研究の背景
国連による「障害者の権利条約」が2006年12月3日に採択され、2012年1月現在、本条約は109ヶ国によって批准され、署名国は153ヶ国に及ぶ[*1]。批准・署名国では、障害者に関する国内法の見直しや整備が進んでおり、いくつかの国で障害者の権利を保護する新しい法律が生まれた。
障害者の権利条約は、「障害の社会モデル」という考え方を基礎としている[*2]。障害の社会モデルを簡潔に言えば、「障害の問題を障害者個人ではなく社会の側に置く」ということだ。社会モデルでは、障害を軽減するための方法は、個人ではなく社会を変えていくということだ。
社会モデルを基礎とした新しい障害者運動は1960年代後半から70年代にかけて、北側諸国を中心にほぼ同時期に発生した。多くの国で、この新しい障害者運動は当時の福祉制度や政策、障害者に対する差別や偏見を批判している。そして障害者が求める社会として、保護や隔離ではなく障害者が地域で平等に暮らせる権利を主張し始めた。障害者は既存の福祉サービス、すなわちリハビリテーションや、医療施設の改善、障害者による福祉サービスの管理を要求し、同時に障害者による独自の福祉サービスを供給し始めた。障害者は障害者に関する政策に関与し、障害者に関する法律の制定にも参加するようになった。
このような北側諸国における障害者運動の発展には多くの研究事例が存在し、福祉制度やサービスに対する批判や否定、独自サービスの供給、そして政策への関与という障害者運動にも一連の類似性が散見されている。しかし一方で、各国の政治・社会・文化的背景により、独自の障害者運動を展開していたことが分かってきている。例えば、アメリカでは黒人や女性の公民権運動の文脈で障害者差別が扱われてきたし、既存福祉制度がそれほど確立されていなかったため、比較的スムーズに独自サービスの供給へと活動を転換することができた。一方イギリスでは、公民権運動は存在しなかった。また逆に福祉制度が確立されていたため、古典的な福祉サービスの否定と同時に新しいサービスを創り出さなければならなかった。
北側諸国で始まった障害者運動は、1980年代に入ると国際社会にも影響を与えるようになり、運動は世界中の途上国にも広がっている。特に1981年のシンガポールにおける障害者インターナショナル(以下DPI:Disabled People International)設立会議にはアジア途上国を含む世界各国から障害当事者が参加した[*3]。その後、社会モデルの考えを基礎とした「国連障害者の10年(1983年~1992年)」と題したキャンペーンが世界中で展開され、社会モデルの考えは広がっていった。社会モデルを基礎とした「障害者の権利条約」が153ヶ国から署名されていることを見ても、社会モデルは世界中に広がっていることが分かる。
しかし一方で、途上国における社会モデルの広がりや障害者運動の発展に関する研究事例は未だ限られている。アジア途上国においても、いくつか研究や報告があるものの、障害者運動の展開や社会モデルの受容など、アジア各国の社会・経済・文化的背景における特徴や限界などはあまり分析されていない。
筆者は、2001年から2007年までタイでアジア太平洋地域を対象に国際協力における障害者支援に従事し、発展途上国の障害者リーダーが、障害者運動を強力に推進している様子を見てきた。彼らは、自国の障害者の社会参加に貢献し、また国際社会においても十分に貢献しうる人材なのではないかという印象を持った。特にタイでは、障害者リーダーが「障害の社会モデル」に則った国内法の整備と「障害者の権利条約」の批准に成功している。そこでタイの障害者運動の発展過程を明らかにし、運動の特徴と限界、またタイにおける「障害の社会モデル」の受容などを分析することが、今後のタイ障害者の社会参加の促進だけでなく、途上国の障害者の社会参加にも参考になるばかりか、国際協力における障害者支援に関わる人にとって意味があると考えた。
第2節 研究の目的
本論文は、アジア途上国の中でも比較的早くから障害者が政策に関与し、障害者基本法が制定され、障害者の権利条約が批准されているタイ国を事例に、障害者運動の展開と政策への関与など、その発展過程を明らかにするものである。とくに北側諸国で新しい障害者運動の基礎とされている「障害の社会モデル」という考えが、タイの社会と文化の中でどのように理解され、また実践されているのか、に注目したい。
第3節 研究の意義
「障害の社会モデル」を基礎とした障害者運動は、北側諸国では研究の対象とされてきた。特に障害学が発展しているイギリス、アメリカの研究事例は多く発見できる。また日本でも、1970年代から障害者運動や障害者の体験談、障害観などについて、多くの報告や研究がみられる。しかしアジア途上国における障害者運動の展開は、まだ十分に研究されていない。それにも関わらず、あたかも「障害の社会モデル」や「障害者の権利」という北側諸国の考えが、途上国でも有効に機能し、北側諸国の障害者運動を見習って障害者にとって平等な社会を構築することが、当然の目標のように捉えられている。本来、各国の政治的、社会的、文化的背景に即した障害の捉え方があり、障害者の権利や社会参加のあり方が存在すると思われる。本論文は、タイの障害者運動の事例を取り上げ、運動の展開を明らかにし、その特徴と限界を分析するものである。そして最後に、タイ国内の障害者支援施策と国際協力に対し提言を行う。
第4節 研究の方法
研究に用いた調査手法は、文献調査と自由面接によるインタビュー調査である。イギリス、アメリカ、日本の障害者運動に関しては先行研究や事例集などを参考に情報を収集し、タイの障害者運動に関しては、数少ない論文や報告書から基本情報を集め、さらに現地調査を実施した。タイの現地調査は、2011年12月に7日間実施し、特にタイ障害者リーダーと障害者運動に参加している若手障害者にインタビューを行った。
現地の訪問先と面会者は以下の表1の通りである。
表1:タイ現地調査面会者訪問日 | 団体名称 | 場所 | 主な面会者(役職) |
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2011年12月11日 | 障害者インターナショナル・アジア太平洋事務局 | バンコク | Ms. Yupa Sureeporn(タム)、プログラムオフィサー、肢体障害者 |
2011年12月12日 | 障害者ユニバーサル財団 | バンコク | Prof. Wiriya Namsiripongpan(ウィリヤ)、タマサート大学教授、全盲 |
2011年12月13日 | タイ障害者協議会 | バンコク | Mr.Samrieng wiriyachanang、自閉症親の会副代表 |
2011年12月14日 | 社会開発人間安全保障省障害者エンパワメント局 | バンコク | Ms.Wijittra、エンパワメント局政策部部長 |
2011年12月14日 | 障害者音楽と芸術ネットワーク | バンコク | Mr. Sawang Srisom (サワン)、代表、肢体障害者 |
2011年12月14日 | ノンタブリ | Phra Paisal Visalo(パイサル)、僧侶 | |
2011年12月15日 | バンコク | Mr. Monthian Buntan(モンティアン)、タイ上院議員、全盲 | |
2011年12月15日 | ノンタブリ | Mr. NarongPatibatsarakich(ナロン)、DPIタイ初代代表、肢体障害者 | |
2011年12月15日 | バンコク | Ven. Mae Chee Sansanee Sthirasuta(サンサニー尼僧) | |
2011年12月16日 | アジア太平洋障害者センター | バンコク | 佐野竜平、情報知識課マネージャー、 Mr. Somchai Rungsilp(ソムチャイ)International Training Manager |
2011年12月16日 | ナコンパトム自立生活センター | ナコンパトム | Mr. Teerawat Sripaghonsawad(ティラワット)、所長、肢体障害者 Mr. Sanya Krongthan(サンヤ)、マネージャー、肢体障害者 |
2011年12月16日 | 障害者インターナショナル・アジア太平洋事務局 | バンコク | Ms. Saowalak Thongkuay(サワラック)、地域開発オフィサー、肢体障害者 |
2011年12月17日 | 障害者インターナショナル・アジア太平洋事務局 | ノンタブリ | 宮本泰輔、プログラムオフィサー |
第5節 論文の構成
第2章ではイギリス、アメリカ、日本の1970年代の障害者運動を振り返り、各国の独自性とともに共通性を明らかにする。それに基づき、タイ障害者運動を分析するための研究課題を設定する。第3章では、タイの障害者運動の歴史について、特に1983年の障害者インターナショナル・タイランドの設立から2007年のエンパワメント法の成立までを振り返り、タイ障害者運動の展開過程と政策への関与を明らかにする。第4章では、タイにおける障害概念の独自性を考察し、さらに第2章で示された研究課題に照らして、タイ障害者運動の特徴や限界を分析する。北側諸国で生まれた「障害の社会モデル」がどの程度どのような形でタイ障害者運動に影響を与えてきたかに注目する。第5章では、第4章の考察をまとめた上で、国内支援施策と国際協力におけるタイ障害者の社会参加について提言を行う。
*2 権利条約における障害者の概念(権利条約第一条)は、「障害者には、長期の身体的、精神的、知的又は感覚的な機能障害(インペアメント)のあるものを含む。これらの機能障害は、種々の障壁との相互作用により機能障害のある者が他の者との平等を基礎として社会に完全かつ効果的に参加することを妨げる場合がある」として障害と社会の関係を明記している。
*3 1981年11月末、51ヶ国から400人以上の障害者がシンガポールのDPI第一回世界総会(設立会議)に参加している(ダイアン;2000;86)